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洋楽文化史研究会
2009年度 活動の記録

第52回例会
2009年4月5日(日) 14:30〜 東京大学駒場キャンパス
研究報告:ヘルマン・ゴチェフスキ「日本音楽文化の近代化における文化説と歴史説の役割」
 私が提案したテーマ「日本音楽文化の近代化における文化説と歴史説の役割」でピンと来ない人も多いと思いますが、私も実は非常に曖昧にしか考えていないことで、だからこそ皆様の意見を聞きたいところです。
 皆様がご存じの通り、伊澤修二の「音楽取調成績申報書」の最初の方に甲乙丙の説が述べられ、その中の丙説が日本の文化的発展に相応しいとされ、音楽の「和洋折衷」あるいは「和中洋折衷」が提案されます。この諸説は文化の発展の可能性についての「歴史説」だといえると私は解釈しています。また同書143〜148頁にプラトン等の思想に基づいて音階と国家の進歩についての「文化説」が述べられ、それに従って学校唱歌で長調という音階を優先すべきと決められた。
 確かに日本のすべての子供が受けるべき教育音楽を設定するために、大きな文化的な変化を経験していた日本ではあるていどの文化説や歴史説がなければ不可能だったと思います。しかし(1)「和洋折衷説」は提案されても実際にあまり成功していません。逆に(2)長短音階の優劣説の通り、今日なお歌われている子供の歌のほとんどが長調で、伝統的な音階や短調音階を使う歌が比較的に少ない。
 (1)の事実は、ある歴史説に従って文化を動かそうとしても、必ずしもそれで成功するとは限らないと示しています。(2)の事実では、実際にその文化説がその様に働いていたののか、それとも別の力が働いて、文化説がその弁護のために使われただけなのかが問題です。つまり、歴史的な変化でいろいろ文化説と歴史説が述べられるのは、実際にどの様な歴史的な役割を果たしているのかは、私の今回の報告の問題提案です。それについて多くの方々の意見を聞きたいと思います。
 もちろん文化説と歴史説が明治時代に限って提案されたわけではない。大正時代にも特にそれが盛んで、兼常清佐の『日本の音楽』、田辺尚雄の『日本音楽講話』、童謡運動の様々な発言などにもそれぞれ文化説や歴史説が、歴史解釈や文化政策批判の裏付けとして使われています。特に田辺尚雄の説が今日までも影響を持ち続けているのではないかと思います。
 また、昭和十年代にさかんだった「日本和声」の議論(これらは現実を説明するためというより将来の発展を起こすために行われた議論だった)などにも当然ながら文化説的な面が強い。ただしこれらの説は日本音楽の発展へあまり影響を及ぼしていないと思います。
 今回の報告は「問題提起」の程度のものになりそうですが、私は一番問題にしたいのは、その文化説や歴史説が直接歴史に働きかけたのか、それともただ歴史の成り行きを反映しているのか、それともどちらでもなく、ただ思想史の一面だったのか。そしてこの疑問に答えるためにどんな方法があるか、という問題です。
 研究会の他のメンバーが議論がさかんになるような資料などを思いついて、当日持って来たら大歓迎です。(事前に私に連絡をとっても勿論いいです。でも、あまり改まった発表になりそうにもないので、当日いきなりでもまったく構いません。)
 
特別例会
2009年4月19日(日) 11:00〜12:30 両国・みどりコミュニティーセンター
研究報告:戸ノ下達也「競演合唱祭からみんなの合唱へ…」レクチャー
 トウキョウ・カンタート2009コンサート「競演合唱祭からみんなの合唱へ…」(5月2日(土)/すみだトリフォニーホール)で取り上げる時代背景やコンセプトについてのレクチャー。日本に西洋音楽が本格的に導入されて140年余り。今、私達はごく自然に歌を口ずさみ、仲間達と合唱する。このように日常化した音楽文化のいとなみを、流行歌や合唱曲を再演することにより、歴史に位置づけ、その時々の社会と音楽の関係をあわせて考えてみよう、という演奏会のねらいをわかりやすく解説する。
 
第53回例会
2009年5月31日(日) 13:30〜 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2
研究報告:金子龍司「小川近五郎のレコード検閲」
※ 例会終了後に2009年度総会を開催いたしました。
 本報告は、先年の永原宣氏の報告「評論家としての検閲官:戦前・戦中期における<流行歌>をめぐる言説と小川近五郎」(第49回例会、2008年7月12日)に先行研究として負う所大であり、またそれを踏まえた上で本年3月に九州大学大学院比較社会文化学府に提出した修士論文『戦時下日本における政治権力と歌』の一章を元にしたものである事を明らかにしておく。
 近年の日本における戦前戦中の音楽に関する研究の進展には目を見張るものがある。従来この時代の音楽は、権力と音楽家が対置される二項対立の図式で語られる事が多く、そうした図式によれば、戦時期の音楽家は強制する権力に対する受動的な存在としか語られていなかった。即ち彼らが戦時中に為した事は、権力に対する「協力」か「抵抗」か、といった切り口でしか語られてこなかったのである。しかし90年代以降、当時の文脈で音楽や音楽家を捉えなおす研究が進んだ事で、そうした図式では語りきれない部分がある事が今日までに明らかになって来ている。
 しかし未だ為されていないのは、当時の権力に関する研究である。即ち、権力は本当に音楽や音楽家を独力で思うがままに操り、戦中の国民統合のために音楽を上手に使えていたのか。権力は本当に音楽や音楽家を一方的高圧的強権的に強制する不可視で不気味で恐ろしい存在であったのか。こうした問題意識から、今回は小川近五郎のレコード検閲と題して報告させていただく。
 従って本報告で考えたいのは、レコード検閲を権力による弾圧として捉えるのが適当なものか否か、むしろレコード検閲という事業を独力で営めるほどの権威なり技術なり知識なりを権力は持っていなかったのではないかという事である。そのための要点にしたいと現時点で考えているのは、以下のような事柄である。
(1)流行歌批判の系譜
 昭和9年のレコード検閲の開始以前から、そもそも日本の流行歌はネガティブなものとして捉えられていて、積極的にその存在を肯定する人はまずいなかった。流行歌は「御不浄」(吉本明光)に例えられる存在であって、女子供が歌うべきでないセクシャルなものとして捉えられ、知識レベルの低い階層が歌う「頽廃的」なものとされていた。流行歌に対するこうした認識は評論家から一般市民、また流行歌の作り手送り手をも含めて広い範囲に共有されていて、特に『二人は若い』以降子供に真似のされやすい「対話調」(小川近五郎)を含んだ楽曲が流通すると、評論家や一般市民はもっと厳格な取締りをするよう当局に対して批判を言っていた。
(2)検閲当局と業界との「協調」
 レコード業界も、検閲の結果として発禁処分を受ける事を「恥」と考えていた。さらに発禁処分を受けると経済的な損失も被る事になる。従ってそうした処分を出来る限り避けたかったため、彼らは検閲当局に協力的だった。そして検閲当局も、取締りのためのコストを減らしたいために、あらかじめ検閲に引っ掛かるようなレコードを製作しないようにその意向を業者に伝える「懇談」や、事前に試作盤を提出させ意見を申し渡す「内閲」の機会を作った。しかしここで注意が必要なのは、前者が一方的な柔らかい権力行使に終始するものではなかったことだ。「懇談」の場は、業者にとって当局に意見表明をするための場でもあったし、また評論家と一丸となってその取締方針が厳格に過ぎる事を訴え「小川近五郎攻撃の会」に転じるような場でもあった。
(3)流行歌を批判する声の影響力
 ところで検閲当局はレコード検閲にあたって、レコードが持つ社会的な影響力を重視していた。つまりそのレコードの持つテクストによって、あからさまな安寧秩序の妨害や風俗壊乱の恐れがあると認められたものを除き、レコードは流行らなければ、もしくは流行すると想定されなければ取締りの対象とはならなかった。そのため、検閲の実態として、あるレコードが広範に流布して識者を騒がせ、そういった声に応じて該レコードの再発売の禁止や在庫の回収などの措置が取られる事が多かった。識者達にとってみればこうした事態は、検閲を通過させるべきでなかったレコードを当局が通過させてしまったという意味で検閲の失敗を表すものであり、そこから検閲当局そのものに対する批判が発生し、それに応えて当局が検閲基準を改める事もあった。つまり、流行歌を批判する声は当局に対して相応の影響力を持っていた。
(4)専門家との「協調」
 レコード検閲官の小川近五郎は、音楽の専門教育を受けていた訳でもなく、単なる一役人に過ぎなかった。そのためレコードの取締りの基準を策定するにあたって、専門的な知識や技術を持った音楽家達の見解もまた検閲に対して大きな影響力を持っていた。一方では役人にすぎない検閲官には専門的立場から音楽を批評する音楽家達の存在が不可欠だったが、もう一方では音楽家達もまた検閲開始以前から流行歌の存在を苦々しく思っていて、国家的な規模でそうした流行歌が取り締まられる事に賛同的な人達だった。つまり両者にとってレコード検閲は、流行歌を家庭で歌えるようなものにまで「向上」させていくための実践に外ならず、両者は協調してレコード検閲を行った。
(5)隠蔽される協調
 以上から日本におけるレコード検閲は、戦争とは直接的には無関係に開始され、その実態も広範に存在した流行歌批判の声を受け入れそれと会話をしながら為されたものであり、特に専門家と検閲官の協調の賜物であった。しかし戦後、山根銀二が山田耕筰を「戦争協力者」として告発したように、こうした専門家は非戦争協力者ならざるを得なくなった。従って戦後は検閲当局という権力と協調した過去が隠蔽され、レコード検閲は政治権力による音楽界への弾圧といった描かれ方が為されるようになっていった。
これらの要点をきちんと整理した上で要領よく報告に盛り込めるか否かはわからないが、報告者としてはこれら諸点を踏まえ、二項対立の図式を括弧にくくった上で、検閲当局と流行歌を批判する音楽家なり知識層なりとの関係を改めて考えてみたい。
 
第54回例会
2009年6月20日(土) 14:30〜 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2
研究報告:松岡昌和「「南方」に響く「日本の歌」――日本軍政下シンガポールから見た「日本文化」」
 アジア太平洋戦争の開始に伴って東南アジア各地を占領した日本軍は、さまざまなメディアを使ったプロパガンダを行った。その際に課題となったのが、「日本文化」がこの地で以前の支配者によってもたらされた「欧米文化」よりも「優れた」ものであると主張し、それを占領地に宣伝することであった。本発表は、1942年2月に日本軍が占領したシンガポールを例に、そこで宣伝された「日本文化」が同地でどのように認識されていたのかを明らかにしようとする試みである。具体的には児童向けにラジオで流され、また学校で教材として用いられた「日本の歌」を取り上げる。
発表は以下の手順で行う。第一に、日本軍政下シンガポールでの「日本の歌」を用いたプロパガンダの実態について明らかにする。ここでは、学校で教材として用いられたと考えられるこども向け新聞に掲載された歌を取り上げる。第二に、シンガポール国立文書館所蔵の証言から、「日本の歌」に対する占領地住民の認識を探っていく。
以上の分析から、「日本文化」なるものが単一の語りで成立していたものではなく、矛盾に満ちたものであったことを、軍政側・占領地住民双方の視点から示したい。
 
第55回例会
  2009年8月23日(日) 14:00〜 東京大学駒場キャンパス18号館4階 コラボレーションルーム2
   テーマ:『国歌と音楽―伊澤修二がめざした日本近代』書評会
   書評対象図書:奥中康人『国歌と音楽―伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社、2008年)
   書評者:酒井健太郎、袴田麻祐子
   ゲスト:奥中康人(著者)
   →傍聴記準備中
 
■第1回 記念シンポジウム(第56回例会) (シリーズ例会「東京音楽学校」)
    日時:2009年10月3日(土)13:30〜
    場所:18号館4階コラボレーションルーム1
    パネリスト:佐野光司氏、塚原康子氏
    →傍聴記
 
第57回例会
  2009年11月21日(土) 14:00〜
  一橋大学西キャンパス第一講義棟206教室
   研究報告:渡邉皓太郎「レコード検閲制度からみる昭和初期文化統制政策の考察」
 
 
■第2回 研究報告(第58回例会)(シリーズ例会「東京音楽学校」)
   2009年12月13日(日) 14:30〜
   東京大学駒場校舎18号館4階コラボレーションルーム1
    研究報告:上田誠二「音楽教育の社会化に邁進した社会教育官僚
―大衆社会と向き合った乗杉嘉壽校長(1928−45)―」  
    *参考文献:上田誠二『教育と音楽の大衆社会史―現代化する日本を支えた文化―』(新曜社、近刊)の第2・5章
 
第59回例会
2010年1月23日(土) 13:30〜 日本大学文理学部 2号館(研究棟) 2204教室(2階)
研究報告:手塚賢一「横浜市歌と南能衛(1881-1952)」
研究報告:三枝まり「橋本國彦と東京音楽学校―唱歌編纂掛での活動を中心に―」
■研究報告:手塚賢一「横浜市歌と南能衛(1881-1952)」
 横浜市歌は1909(明治42)年に当時の市長、三橋信方が開港50周年紀念式典に際して、作詩を当時すでに文豪といわれた森 林太郎(鴎外、47歳)に、作曲を東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に依頼したものである。東京音楽学校では、作曲を前年助教授となった、小学唱歌編纂委員・作曲委員であった南 (28歳)に依頼した。式典では、市歌が東京音楽学校卒業の高野巳之助指揮、横須賀海軍楽隊の伴奏、および市内の小学校から選抜された300名の生徒たちによって歌われた。海軍楽隊は瀬戸口藤吉に代表されるように東京音楽学校と非常に関係がある。南能衛は31歳で突然東京音楽学校を辞職したため、かなりの部分が謎となっていた。横浜市歌を通して音楽教育者としての南能衛の足跡を追ってみた。また台湾での彼の活動についても言及したい。南能衛は東京音楽学校創立60年1939(昭和14年)式典にて文部省より音楽教育功労者として表彰された。
 
■研究報告:三枝まり「橋本國彦と東京音楽学校―唱歌編纂掛での活動を中心に―」
 本発表は、東京音楽学校における橋本國彦の活動について、特に唱歌編纂掛での活動を中心に明らかにするものである。
 橋本國彦は1929(昭和4)年11月20日に東京音楽学校の教務嘱託となり同日唱歌編纂掛の編纂員を命じられる。以降、彼は同校作曲部の講師、助教授を経て1940年には教授となり、アカデミズムのトップとして戦前の音楽界で果たした役割はきわめて大きい。なかでも、唱歌の編纂は、教育活動や演奏活動と並んで東京音楽学校で彼に与えられた重要な職務であった。1929(昭和4)年から、1937(昭和12)年度を除き1941(昭和16)年まで12年間、彼は唱歌編纂掛の一員として、文部省が発行したものとして『新訂尋常小学唱歌』(1932)、『ウタノホン(上)』(1941)、『うたのほん(下)』(1942)、それ以外の唱歌集としては『新歌曲』(1931)の編纂に関わった。
発表の手順として、彼が編纂に関わった唱歌集について、まず編纂の目的や趣旨を確認し、次に実際に作曲された彼の作品について音楽的な側面を考察する。本発表では同時に、東京芸術大学に保存されている資料の状況についてもあわせて報告する予定である。
 
■第60回例会
   2010年3月7日(日)14:00〜 東京大学 駒場校舎 18号館4階 コラボレーションルーム1(会場案内
    研究報告:西島央氏ほか(国民学校芸能科音楽研究会によるグループ発表)
       「備品・教育費からみる学校と地域の音楽関係史−昭和10年代の長野県を事例に−」