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シリーズ例会「東京音楽学校」

研究報告要旨 

■第1回 記念シンポジウム(第56回例会)
2009年10月3日(土)13:30〜 東京大学駒場キャンパス
パネリスト:佐野光司氏、塚原康子氏
「東京音楽学校」を統一テーマとしたシリーズ例会の初回を飾るシンポジウムである。東京音楽学校およびその後進である東京藝術大学について、これまで研究的な視点から整理されていることを把握し、そのうえで今後求められる展開や問題について会員間で意識を共有する貴重な機会となった。
本シンポジウムでその問題提起役を担って下さったのは、塚原康子氏・佐野光司氏のゲストお二人である。
 
塚原氏は、「東京音楽学校の研究に向けて」と題した報告で、まずこれまでの東京音楽学校に関する研究史を整理された。西洋音楽導入の拠点として、また音楽教員・音楽家の養成機関として、さらに音楽研究の拠点として、それぞれ洋楽史・音楽教育史・日本音楽史や民族音楽研究史の観点からはすでに複数のアプローチがなされている。また、『東京藝術大学百年史』(1987〜2003年刊行)のように大学史としての研究も成果が公開されている。当日紹介された、おもに大学史に関する先行研究の文献紹介は、塚原氏の許可を得て本ホームページに転載する予定である。
 
続いて報告では、現在の東京藝術大学の資料の収蔵および公開状況について示された。卒業演奏の記録や作曲科の作品などは意識的な収集がなされておらず、外部が期待するよりずっと所蔵が少ないということ、また在籍者の履修状況等の公文書は研究的視点からの保存はされず、また残っていても個人情報保護規定により公開できない状況であるということだった。その一方、音楽取調掛設立以来の寄贈・購入資料、活動成果物等は、震災や戦火の影響を免れかなり貴重なものが現存している。S.M.タゴール寄贈のインド書籍、明楽資料(楽器・楽譜)、邦楽調査掛の資料、戦前の資料展覧会関連文書など非常に興味深い資料の所蔵状況が紹介された。
さらに塚原氏は、今後期待される研究的展開として、
  1. 東京音楽学校と国内の他の音楽専門機関との比較
  2. 近代日本の音楽文化史のなかに位置づけるための検討
の2点をあげられた。
とくに2.については、これまでの研究が明治期の活動に偏重していた点を指摘し、より全体を見渡す研究が求められていると提言された。そのためには適切な時期区分が必要とのことで、当日は暫定的に以下のような提案がなされた。  
1879-1887 音楽取調掛時代
1887-1899 東京音楽学校発足〜東京高等師範学校付属音楽学校時代(1893-1899)
1900-1928 再独立後の大幅制度改正〜乗杉嘉寿校長着任まで
1898定期演奏会/1903オルフォイス上演/1907邦楽調査掛/1920国内出張演奏/1922-1932第四次臨時教員養成所
1928-1945 昭和戦前期乗杉校長時代
1929創立50周年/1930管楽器専攻・1931作曲部・1936邦楽科/1933-1944上野児童学園/1942満州演奏旅行
1946-1949戦後(最後の卒業生を送り出す1952年まで音楽学校存続)
また、より具体的な切り口として在籍者・卒業生に関する研究についての検討があった。これについても現在までに明らかになっているデータの紹介にはじまり、出身(入口)と卒業・退学後(出口)の研究、他機関の人材養成との比較など、今後の研究の取り掛かりについて可能性が示された。その際、東京音楽学校に在籍中の学生や教師の自主活動、また学生の卒業後の活動まで「音楽学校研究」に含められるかどうかという問題点についても触れられた。上述した時期区分と同様に、今後具体的な研究が着手されるなかで適切な線引きを求めることが必要となるだろう。
 
続く佐野氏の報告は「東京音楽学校が演奏した日本人作品」として、戦前の東京音楽学校での演奏会の選曲から、当時の学校のレベルや洋楽受容に関する方針を考察するものであった。 
『東京芸術大学百年史』(演奏会篇)には、明治25(1892)年から曲目の記録があらわれるが、当初はドイツ作曲家の作品中心で、日本人作曲家の作品があらわれるのは大正元(1912)年からということである。佐野氏は、その後の時代についても東京音楽学校の演奏会の曲目を検討し、時代が下るにつれラヴェル、ドビュッシー、プロコフィエフ、ヒンデミットなど高度な演奏テクニックを要求される作品が増えること、そこから在籍者の演奏レベルの向上が推測できると同時に、まさにその「演奏レベルの向上」が期待される作品が学校の演奏会では選曲されていたのではないかということを指摘された。東京音楽学校の演奏会史で、とくにその初期には日本人作曲家の作品は歌曲・合唱曲のみがとりあげられ、器楽曲が殆どないのは、日本人作曲家の器楽曲が演奏テクニックの向上にならないとみなされていたからではないかという見解が述べられた。 
その後1960年代(東京藝術大学時代)から、やっと日本人作曲の管弦楽作品が東京音楽学校の演奏会にかけられることが増える。これについて佐野氏は日本フィルの日本人作曲家への作品委嘱シリーズがはじまったこととの関係を指摘された。 
東京音楽学校は日本の洋楽受容史の中心的存在だったというのが定説である。だが、「日本人作曲の洋楽作品の演奏(音にする)」という点では、寄与するところが少なかったのではないかというのが佐野氏の今回の問題提起である。 
 
東京音楽学校の学校史研究では、しばしば同時代の文化・社会との横のつながりが見えにくく、洋楽文化史の全体的な動きのなかで見落とされる部分もでてきてしまう。佐野氏の今回の報告は、東京音楽学校の「果たさなかった役割」を再考することで、同時代の他領域に光をあてる可能性を逆説的に示す提言でもあったと感じた。  
 
報告後の質疑応答では、在籍者が具体的にどの教師に師事したのか、師弟関係がわかるような資料はあるのか、演奏会の曲目選定は誰がどのような思惑で関わっていたのか、といった各報告の詳細についての問いにはじまり、音楽学校(専門学校)から大学への改組時の接続問題、楽理科創設当初の目的と実際、美術学校との統合時の議論、校友会誌/学友会誌/同声会といった学校関係交流誌の各々の性格について、同時代の海外の音楽学校創設状況との比較……など今後検討されるべき様々な視点が提出された。 
 
ゲスト報告者両氏の丁寧な整理と刺激的な問題提起のおかげで、今後このテーマについて活発な研究が広がることが期待される有意義なシンポジウムであった。 
(文責:袴田麻祐子)

■第3回研究報告
2010年1月23日(土) 13:30〜 日本大学文理学部 2号館(研究棟) 2204教室(2階)
研究報告:手塚賢一「横浜市歌と南能衛(1881-1952)」
研究報告:三枝まり「橋本國彦と東京音楽学校―唱歌編纂掛での活動を中心に―」
■研究報告:手塚賢一「横浜市歌と南能衛(1881-1952)」
 横浜市歌は1909(明治42)年に当時の市長、三橋信方が開港50周年紀念式典に際して、作詩を当時すでに文豪といわれた森 林太郎(鴎外、47歳)に、作曲を東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に依頼したものである。東京音楽学校では、作曲を前年助教授となった、小学唱歌編纂委員・作曲委員であった南 (28歳)に依頼した。式典では、市歌が東京音楽学校卒業の高野巳之助指揮、横須賀海軍楽隊の伴奏、および市内の小学校から選抜された300名の生徒たちによって歌われた。海軍楽隊は瀬戸口藤吉に代表されるように東京音楽学校と非常に関係がある。南能衛は31歳で突然東京音楽学校を辞職したため、かなりの部分が謎となっていた。横浜市歌を通して音楽教育者としての南能衛の足跡を追ってみた。また台湾での彼の活動についても言及したい。南能衛は東京音楽学校創立60年1939(昭和14年)式典にて文部省より音楽教育功労者として表彰された。
 
■研究報告:三枝まり「橋本國彦と東京音楽学校―唱歌編纂掛での活動を中心に―」
 本発表は、東京音楽学校における橋本國彦の活動について、特に唱歌編纂掛での活動を中心に明らかにするものである。
 橋本國彦は1929(昭和4)年11月20日に東京音楽学校の教務嘱託となり同日唱歌編纂掛の編纂員を命じられる。以降、彼は同校作曲部の講師、助教授を経て1940年には教授となり、アカデミズムのトップとして戦前の音楽界で果たした役割はきわめて大きい。なかでも、唱歌の編纂は、教育活動や演奏活動と並んで東京音楽学校で彼に与えられた重要な職務であった。1929(昭和4)年から、1937(昭和12)年度を除き1941(昭和16)年まで12年間、彼は唱歌編纂掛の一員として、文部省が発行したものとして『新訂尋常小学唱歌』(1932)、『ウタノホン(上)』(1941)、『うたのほん(下)』(1942)、それ以外の唱歌集としては『新歌曲』(1931)の編纂に関わった。
発表の手順として、彼が編纂に関わった唱歌集について、まず編纂の目的や趣旨を確認し、次に実際に作曲された彼の作品について音楽的な側面を考察する。本発表では同時に、東京芸術大学に保存されている資料の状況についてもあわせて報告する予定である。

■第4回研究報告
2010年7月31日(土)13:30〜 
アットビジネスセンター池袋駅前本館802号室
研究報告:小宮多美江「東京音楽学校がもたらしたのは「二十世紀は演奏の時代」?」
このテーマの初回例会「東京音楽学校の研究に向けて」塚原康子、佐野光司両氏の要旨はHPでごらんいただくとして、私は、そのとき同時に配られた戸ノ下達也氏のレジュメ「『東京音楽学校』を考える」を参考に、20世紀日本に存在した我国唯一の国立音楽学校に期待されたものはなんだったのか、そしてその成果は、と考えさせてもらった。  レジュメは、一、近代・現代史における位置付け 二、教育の観点 三、音楽文化の観点 へと進んでいるが、三、の最後にあげられた項目、邦楽の再構築、民族音楽(たとえば日本民謡)へのアプローチ、ポピュラー音楽、大衆歌謡に対する視点のところに至って、これらは東京音楽学校の視野にまったく入っていなかったものなのではないかと気づいた。  伊澤修二のいわゆる折衷説は良く知られているが、「音楽取調成績申報書」には甲乙丙三説があり、その乙説には、「各国各言語のある如く、住民と風土により生まれた音楽が、各国固有のものとなるは当然で、他国の音楽を移入の例はなく、だからこそわが國は固有の音楽を培育すべきだ」とある。  もし、その國に言語があるようにその國の音楽があるのだという説が認められた上で、日本の音楽の近代化が進められていたならば、東京音楽学校の果たした役割もずいぶんと違ったものになったことだろう。しかし、事実は「洋の東西を問わず音楽は同じで可、洋楽最高なればそれを移植すべし」という甲説がもっぱらとられたのだった。  ただ、レジュメの二、の教育の観点 については、上田氏の研究からもうかがえるように、時代の波にゆさぶられながらもたしかな成果をあげたといえるのではないか。  今回の課題に向かって私は、作曲家安部幸明の「日本の歴史上、東京音楽学校史ほど、今の日本の洋楽史を学ぶ上に重大なものはない、がしかしそれは百年史をみてもわからないよ」とのことばや、小泉文夫と團伊玖磨の貴重な対談(「日本音楽の再発見」講談社現代新書)、そしてまた林光その他多くの作曲家たちの発言を参考に考えてみた。